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江戸時代初期の時代、紀州藩主が徳川頼宣の頃、南部の農民はあまり梅が育たない田畑と重い年貢に苦しんでいました。これを見た南部地方を治める「田辺藩主」安藤帯刀(あんどうたてわき)は、以前からあった「やぶ梅」に注目しました。安藤帯刀は「篠竹(しのたけ)」や「やぶ梅」が生える場所は痩せ地で田畑の耕作不能な地域だ、として免税地としました。そしてそこに生える「やぶ梅」の実を「梅干し」として江戸へ輸出し、同時に農民の食料としたのです。重い年貢に苦しんでいた農民はさらに免税地を増やすために、他の土地にも梅を植えていきました。その努力の甲斐あって、いつしか南部周辺に「やぶ梅」の栽培が広まっていきました。 |
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「やぶ梅」は、果肉が薄く小粒でしたが、農民の生活には大切な品でした。果肉をこめかみに貼り頭痛を治したり、握り飯に入れたり、その価値は大きいものでした。やがて梅干しは江戸で人気が出るようになります。そこで、南部梅の良品なものだけを選び『紀伊田辺産』の焼き印を押した樽に詰め、江戸へ送られ有名になりました。 |
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江戸時代、南部の埴田村(はねたむら)では梅畑が一面に広がり、花の咲く頃は梅の匂いが野山いっぱいに広がっていました。「紀伊名所図絵(きいめいしょずえ)」に紹介されるほど見事な埴田梅林は、明治初年には南部川西岸の井出河原片山の片山梅林へと広がっていきます。しかし、明治15年頃から盛んになった生糸(生糸)生産のため、梅は桑の木に植え替えられるようになります。埴田を追われた梅は、やがて晩稲(おしね)・熊岡の地で南部梅林として蘇ることになります。 |