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南部川村(現代のみなべ町)の梅栽培の先駆者である内中為七の長男、源蔵(げんぞう)は紺屋(こんや)を営む青年実業家でした。時代を読み、梅栽培がよいと判断した源蔵は明治34年、紺屋を廃業し私財を投じて熊岡の扇山を買い取り、4ヘクタール(400アール)の土地を開墾しました。その開墾地に先の内本徳松が発見した優良種を植え付けました。また、加工場を設けて梅の商品化にも着手。若き事業家の強い意志が、村の発展のきっかけとなりました。 |
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内中源蔵の事業にならい、晩稲区長高田久治郎は農家約200戸に区有林を20アールずつ分配し、開墾と植梅を奨励しました。村は今までの粗放栽培から一変、管理栽培になり、梅蔵の数も増えていきました。明治の日清・日露戦争の始まりとともに軍用として、またコレラ・赤痢の予防と治療用にと梅干しの需要が急速に伸び、村内に内中源蔵に習う者が増え、晩稲・熊岡の山々に梅林が広がりました。 |
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高田貞楠は元上南部村長の長男でした。温厚な人柄で家を守り、村を愛する日々を送っていました。明治35年、自身が所有する約30アールの桑畑に近所の人から購入した内中梅の実生苗(みしょうなえ)60本を植えました。その中に豊産で実が大きく、美しい紅がかかる優良種が一本あるのに気が付き、その気を母樹として大切に育てました。 |