田舎の梅農家 プラムハウスふなやま
農家案内商品紹介農作業|旧南部川村紹介|梅料理お客様の声プレゼントホーム
一覧 ■第1章 □第2章 ■第3章 ■第4章 ■第5章
第2章 南高梅誕生物語

内中源蔵の事業
南部川村(現代のみなべ町)の梅栽培の先駆者である内中為七の長男、源蔵(げんぞう)は紺屋(こんや)を営む青年実業家でした。時代を読み、梅栽培がよいと判断した源蔵は明治34年、紺屋を廃業し私財を投じて熊岡の扇山を買い取り、4ヘクタール(400アール)の土地を開墾しました。その開墾地に先の内本徳松が発見した優良種を植え付けました。また、加工場を設けて梅の商品化にも着手。若き事業家の強い意志が、村の発展のきっかけとなりました。
南部梅林の基礎
内中源蔵の事業にならい、晩稲区長高田久治郎は農家約200戸に区有林を20アールずつ分配し、開墾と植梅を奨励しました。村は今までの粗放栽培から一変、管理栽培になり、梅蔵の数も増えていきました。明治の日清・日露戦争の始まりとともに軍用として、またコレラ・赤痢の予防と治療用にと梅干しの需要が急速に伸び、村内に内中源蔵に習う者が増え、晩稲・熊岡の山々に梅林が広がりました。
高田貞楠のこと
高田貞楠は元上南部村長の長男でした。温厚な人柄で家を守り、村を愛する日々を送っていました。明治35年、自身が所有する約30アールの桑畑に近所の人から購入した内中梅の実生苗(みしょうなえ)60本を植えました。その中に豊産で実が大きく、美しい紅がかかる優良種が一本あるのに気が付き、その気を母樹として大切に育てました。


南高梅へと続く高田梅
小山貞一は農業経営の成功を夢見る青年でした。しかし、当時の梅は小粒で果肉も少ない梅だったので、貞一はもっとすばらしい梅を作り出したいと試行錯誤を繰り返していました。そんなある日、晩稲の高田貞楠という人がすばらしい品種の梅を栽培しているということを耳にした貞一は、貞楠に穂木を分けて欲しいと願い出ました。しかし、家宝とも言える素晴らしい梅の穂木をそう簡単には分けてもらえるはずもなく、最初は断られました。しかし、貞一は何度も何度も貞楠のもとを訪ね、自分の気持ちをぶつけました。その誠意と熱意が本物であると分かったとき、貞楠は快く60本もの穂木を譲ってくれました。だが苦労はまだ続きました。良い品種だったのですが接ぎ木をしても半分も育たず、またもや試行錯誤の日々を送りました。その結果 いろいろな苦労・困難を克服し、ついには高田梅の栽培に成功したのでした。また後に行われる「梅優良母樹選定委員会」の委員の一人にもなっています。
命名「南高梅」
時は流れ昭和25年、これからの上南部村・高城村・清川村(後に合併して南部川村となる)周辺を支えていける梅の優良母樹を見つけるため「梅優良母樹選定委員会」が発足しました。その委員長には竹中勝太郎先生という南部高校園芸科の主任教師が選ばれました。勝太郎先生は南部高校の生徒と共に梅の品種37品目を5年間かけて綿密に調査し、その結果 高田梅が最優良品種として選ばれることとなり「南高」と命名する事になりました。「南高」の名付け親である竹中勝太郎先生は後にこう書き記しています。「選出系統の中で、一番可愛く思い、優秀であり、期待もした一つの無名系統に母校の名前『南高』と付け、必ず将来この梅と共に南高という名前が全国に広がって、栽培農家の幸せに奉仕してもらえることを、ひそかに願っている」多くの人の努力と願いが何十年もかけて一つの結果 となった、それが「南高梅」なのです。


| 一覧 | 第1章 | 第2章 | 第3章 | 第4章 | 第5章 |


▲ページ先頭へ
ご意見・ご感想などお寄せ下さい。
info@kishu-ume.com